「林石油店と5人のお客さま」第1回 ブレーキ鳴き

「キーイ」と大きなブレーキ鳴きの音がして、朝の水まきをしたばかりのガソリンスタンドのエントランス・スペースに、白いレトロな外国車が入ってきた。

「いらっしゃいませー」

 誘導のため飛び出てきた店員の声を制するかのように、慣れたハンドル捌きで点検ピット前に車が停まる。と、開かれたドアから、こちらも最近は「任侠もの」の映画でしか見たことのないような白いエナメルの革靴がぬっと出た。

「なおきちゃん、いる?」男の声が言った

「点検ですか?」と言おうかと思っていた若い店員は、いきなりそう言われて面食らった。

 (なおきちゃん・・・えっ、なおきちゃん?・・・)一瞬考える仕草をしたあとで、ひろしは自分で自分の不明を恥じるように軽く苦笑しながら答えた

「ああ、社長ですね」

 この店員は、4月に専門学校の自動車科を卒業し、この店に入ったばかりの一番若い新米なのである。

 社長の名前は「なおき」。

 で、こちらの店員の名前は、「ひろし」。

「あのー、て、社長はいないんです」

「あー、そう。どこ行ったの?」

「えーと、朝一番に一人で開店準備をして、そのあと僕が来たら、『ちょっと頼む』って出て行かれました」

「ふーん」

 納得しているのか、していないのか、それでも実はその質問の返事はどうでもよいような調子で、男は店内のカフェ・スペースにづかづかと入っていった。

ひろしがガラス越しに見ていると、男は慣れた手つきで店内のコルクボードに貼ってあるコーヒー・チケットを1枚むしりとり、隣に置かれたコーヒー・サーバーに向き合っている。

(ここは本当にガソリン・スタンドなのか)入りたての頃、ひろしはまずこの光景に驚いた。11枚つづりで1杯分お得になるコーヒー・チケットは、街中の個人経営の喫茶店なら見かけることはある。でも、何度も言うが、ここはガソリンスタンド、田舎町の県道沿いに建つ「まちのGS」なのである。

 機械が豆を挽く音が聞こえている。香ばしい豆の香りが、空け放たれたガラスドアからひろしのところまで漂ってきた。

 この間、ひろしはブレーキの点検の件を、男に言うか言うまいか、ずっと迷っていた。ちょっと前から、この常連客の車が、大きなブレーキ鳴きを響かせていることに、ひろしは気づいていた。

 でも男のマイペースな立ち振る舞いが、ひろしにそう言わせることをためらわせていた。

 コーヒーのできあがりを待つ間、男は店の奥の棚に並んだ商品を片っ端から手に取って、裏のラベルを見たりして時間をつぶしている。しかし「商品」と言っても、普通のGSに置いてあるようなエンジンオイルとかカー・エアコンの消臭剤とかではないのだ。

 確か「馬路村」とか社長は言っていた。

 四国は土佐の山あいの小さな村が、村おこしで開発したゆず入りのポン酢とか、ゆずジュースとか、ゆず胡椒などの商品がずらりと並んでいるのである。

 旅行&視察好きの社長がたまたま手にとった『ごっくん馬路村の村おこし』(大歳昌彦・著)という本に大感銘を受け、実際に馬路村まで行ったり、仕掛け人の方をこちらにお呼びしたりして交流が始まった。

 その後、縁あって、馬路村の商品をこの店で直接取り引きをさせてもらっている。

「そういや、マチ子が《ゆずポン酢》キレそうだって言ってたな。おーい、にいちゃん、これ一本」

「は、はい」ひろしは店内にあわてて駆け込んでいく。

「このポン酢、うまいやろ」

「いや、ぼ、僕はまだ・・・」

「なんや、知らんのか。いっぺん使ってみ。なおきも『一度このポン酢に変えると、他の大手のポン酢には戻れない』っていつも言ってるやろ」

「はあ」ひろしが曖昧な返事をしてると、男の方は、

「ヤクでも入ってるんかな」などとひとり物騒なことを言っている。

「はい。どうぞ」とひろしが商品を紙袋にいれて手渡すと、男はいつになく人懐こい笑みを浮かべ、言った。

「いつもありがとな」

 車が好きで、それでこの店を就職先に選んだのだが、最近、自分が喫茶店やスーパーの店員さんの真似事のようなことばかりしているような気分になる時がある。

 でも、お客さんに「おいしかった」とか「ありがとう」とか言われると、なんだかちょっとうれしい気持ちになる自分も、心のどこかにいるひろしである。

「お、コーヒー、コーヒーと。俺、最近ここのコーヒーがやめられなくなってね。こっちこそ、なおきがヤクでも入れてるんやろ」

「そ、そんなこと、ありません!」

 この男が「ヤク」とか言う言葉を使うと、なんだがちょっと物騒な雰囲気が漂うので、ひろしが声をひそめると、

「にいちゃん冗談や。冗談」男は大きな声で笑い声を上げ、ひろしの背中をバンバンと二度叩いた。

「は・は・は・・・」ひろしも釣られて笑ったが、ひきつったような笑いになった。

 男は商品を受け取ると、カフェ・スペースの真ん中に陣取って、コーヒーを飲み始めた。そのままインターネットコーナーでネット・サーフィンをしたり(フリーWi-Fiを使いスマホをいじったり)、週刊誌を読んだりして、いつも小一時間ほど店内でくつろぐのが普通だ。

 そうこうしている間にも、新しいお客や、近所のお店からの集金などがひっきりなしに訪れて、ひろしは一人で走り回っていた。

 そのうちに、男は店の中から出てきた。

「お、じゃ、なおきによろしくな」

 そう言うなり、男は車に乗り込んでいった。

 もちろん給油はなし。この手のお客が多いのもこのスタンドの特徴で、これもひろしが入店後にびっくりしたことの一つだ。

 男はこれまた慣れたハンドル捌きで車をバックさせると、勢いよく県道に車を出していった。

「ありがとうございましたー」

 深いお辞儀から顔を上げたひろしの目の先で、男の車が信号待ちに引っかかり、ブレーキランプの赤い光が点灯したのが見えた。次いで、ブレーキ鳴きの音が遠くこだまのように響く。

「あっ」と、ひろしは声を上げた。「ブレーキ点検のこと、また言いそびれた」

(続く)