「林石油店と5人のお客さま」番外編 コオロギ
晩秋の夜、遅番のひろしはガソリンスタンドの店先に立ち、目の前の県道を行き交う車のヘッドライトの光を見るとはなしに眺めていた。
「今日はもう誰もお客は来ないな」ひとり言を言いながら、閉店の準備のためひろしが店内に入ろうとした時、季節外れのコオロギが一匹、ピョンピョンと跳ねながらドアの前に現れた。
コオロギはまるでお客さまのようにそのままお店の中に入っていったので、ひろしも慌ててその後に続いた。コオロギはそのまま店内に置かれたソファの陰まで跳ねていき、そこで動かなくなった。
「いらっしゃいませー」
ひろしがそっと言うと、コオロギはそれに答えるように、「リーリー」と短く二つ鳴いた。
ひろしがこの林石油店に務め始めて、一年半が経っていた。
ようやく仕事にも慣れ、今では一人で遅番も任されるようになっていた。最初の頃は何につけても初めての経験ばかりで、先輩に付いて走り回っている毎日だった。が、この頃は少し余裕もできて、自分の仕事ぶりについて客観的に考える余裕もできてきている。例えば、今日のように来店客が少ない晩にこうして一人で店番をしている時など、どうしても考えごとをしてしまう時間帯がある。
例えば、このお店の将来のこと。
この前のお昼前の時間に、恵さんと山下さんと3人で「近くの食堂からお昼ご飯の出前を頼もう」ということになった。一番年下のひろしが注文を取りまとめて電話してみたら、
「すみませーん。うち、先月でもうお店閉めたんです」と言われて思わずびっくり。ついに「あそこがねえ」と皆で顔を見合わせたことがあった。
「幹線沿いには大手のチェーン店ばっかり続々とできるけど、うちらみたいな田舎の方の食堂はどんどんとなくなって行くわねえ」恵さんが言うと、
「ガソリンスタンドも同じ」と副店長が続ける。「田舎とか幹線をはずれたところでは、昔から運営しているガソリンスタンドが多くあるけど、その多くが、《一経営者・一給油所》。もちろんうちも、そのスタイルだけど」
山下さんの見立てでは、こうした営業形態は急速な少子高齢化の波にさらされ、砂浜が消えて行くように徐々に徐々に後退していっているのが実情だとのこと。
さらに、追い打ちをかけるのが、温暖化対策と称した「脱炭素」の流れである。実際、副店長の娘さんも、最近、軽の電気自動車を予約したらしい。
「もちろん私は、『お前なあ、親がスタンドで働いているのを知ってて、電気自動車買う?』って言ったんだけどさー。参ったよ」
山下さんは冗談めかして言っていたが、このままでは「ガソリンスタンドの未来は、決して明るくない」ということをひしひしと感じたはずだ。
「リーリーリー、リーリーリー」・・・
ここが居心地が良いのか、コオロギは本格的に鳴き始めている。
でも、「その未来を黙って待っているだけではいけない」というのが、この店の社長の持論である。この店がいろいろな物品を売ったり、ほかのお店にない地域密着型のサービスを始めたりしているのは、そうした危機感からだろう。
また、ガソリンスタンドそれ自体が持つポテンシャルも、まだまだ最大限活用されてはいないのではないだろうか。
例えば、災害時。
ガソリンスタンドは大抵の場合、このあたりの他の建築物より耐震性が高く作られている。さらにスタンドが保有するガソリンや軽油・灯油といったエネルギー資源は、災害時にこそ最も必要になるものだ。いざという時、これを活用しない手はない。
「うちの店には、大き目の発電機が備えられているので、停電時にも給油が可能になっている」と、この前の災害訓練時に先輩の山下さんが教えてくれた。「あと、AEDもあるからね。忘れんといてや」
ここは、緊急時には付近に住む住民の皆さんの、貴重な拠り所となるべき場所でもあるのだ。
「どうだい。うちの店もなかなか考えているだろう?」とひろし。
「リーリーリー、リーリーリー」とコオロギ。
社長は、時折、旅行と称して店を開けることがある。でも恵さんによれば、全国で同じ問題意識を持っている仲間のGSや関係団体を訪ねて、意見交換をする機会にもなっているらしい。
「ちょっと前だけど、秋田・茨城・宮崎、そして福井のうちの店という4店舗の社長さんが集まって、夜遅くまでスタンド談義に花が咲かせたりもしたらしいわ」
確かにそれは面白そうだ。今後あったらぜひ聞いてみたい、とひろしも思っている。
「実は私も友だちとドライブに行った時なんかにね、ちょっと気になるガソリンスタンドがあると、寄ってきて店員さんと話をしたりしてるのよ」
恵さんの考えでは、昔は同業者のスタンドはお客を巡ってライバル関係にあったのが、今の時代は違うのだという。この厳しい時代をどうやって切り抜けて行くかを、業界全体で考えていかないといけないというのだ。
そう言えば、この前ひろしが友だちと行った旅先のGSでは、ひろしのような若い店員が若者に人気のポップな曲をかけながら、手洗い洗車のデモをしていた。その格好良さは、まさに半端なかった。
さあ、そろそろ閉店の時間だ。
「お客さま、申し訳ありません。閉店とさせていただきます」ひろしはそう言うと、コオロギのいるところまで行って、そっと柔らかいタオルを被せた。コオロギを傷つけないよう、慎重にそのまま両手で包み込むようにタオルを丸め、そのまま店の外に歩いて行った。
「お前も、ちょっと時代遅れみたいだけど、まだまだ大丈夫だ」とひろしはコオロギに言った。「ちゃんとお嫁さんを見つけて、次の世代に子孫を残せよ」
そう言いながら、道路脇の草むらにコオロギを放してやった。
「リーリーリー」しばしその場で待っていると、草むらの中からコオロギの鳴き声が聞こえてきた。
ちょうどその時、社長から携帯電話に着信が入った。閉店確認の定時連絡だ。
「どうや。特に何もなかったか」
「大丈夫です。店長」とひろしは言った。「今、本日最後のお客さまをお送りしたところです」
「そう。お疲れさん」
「あのー。社長明日、手洗い洗車についてちょっと聞いていただきたいことがあるんですが・・・」
「リーリーリー」
「リーリーリー」
「リーリーリー」
どうやらこの近くにも、まだオス仲間が残っていたらしい。傍らの草むらでは、ひろしが逃がしたコオロギの声につられたのか、2、3匹のコオロギが一斉に鳴き始めた。
(了)